西サハラをめぐる対立

“Western Sahara” By: Ammar Hassan CC BY 2.0

リン鉱石、漁場、そして海底油田が豊富な北西アフリカの砂漠地域である西サハラは、ポリサリオ戦線とモロッコの間で繰り広げられる長い論争の原因となっています。

ポリサリオ戦線とは、西サハラにおいて独立を目指す武装政治組織であり、アルジェリアからの支援を受けながら、同地域を実行支配するモロッコと対立しています。ポリサリオ戦線は16年もの間、独立を求めてモーリタニア及びモロッコと戦争と行っており、1976年にはSADR(サハラ・アラブ民主共和国)の独立を宣言しました。1991年には停戦協定が結ばれましたが、未だに約10万人の難民がアルジェリアのポリサリオ難民キャンプに住んでいます。

モロッコは西サハラ民の自治体を支援する一方、ポリサリオ戦線はこの領域の最終的な決定は国民投票においてされるべきであると主張しています。この国民投票は1992年に行われる予定でしたが、未だに一度も行われていない状況です。

西サハラは北アフリカのマグレブ地域にある、争いの絶えない領土です。国境はそれぞれ、北がモロッコ、北東がアルジェリア、東と南がモーリタニアに接し、西が大西洋に面しています。歴史的に、スペインの支配下であった時期を含む1884~1975年までは、サハラのベルベル人が住んでいました。彼らは沿岸に位置し、多くのオアシスがある村々に住んでおり、アラビア語の書体を持つベルベル語やハッサニア方言を話し、漁業やラクダ飼いを主な仕事としていました。

1976年のマドリード条約の締結とモロッコとモーリタニアによる併合によって、スペインが撤退したのち、ポリサリオ戦線は、自らを重要な当事者とみなすアルジェリアの支援を受けて、独立を求め二つの国を相手に16年も戦争を続けたのです。この暴動によってすぐに100万人以上の西サハラ民がアルジェリアへと難民として避難し、彼らは今日までその状況から脱することができずにいます。

ポリサリオ戦線はSADR(サハラ・アラブ民主共和国)の設立を宣言しましたが、それは国連に認められませんでした。しかし、アルジェリアと良好な関係を持つ他国からは承認を得ることができました。1979年、モーリタニアは紛争と領土問題から手を引きました。その他、国連はサハラ民が意思決定する権利を名言することと停戦合意に達したことを宣言しました。

そして1990年の国際連合安全保障理事会で平和計画として打ち立てられた西サハラでの国民投票の実施を目指し、国連は1991年の4月に国連西サハラ住民投票監視団を設立しました。しかし停戦が保たれている間に、住民投票が完了するどころか、監視団は十分な人員を配置することすら出来ませんでした。この計画のカギは誰が投票する権利を持つのかを判断する身元確認の方法にありました。

また、国連の有名な特使であるJames Bakerによって紛争を解決するために、新たな試みがなされ、Chiristopher Rossによって進められました。しかし、今のところそれは解決に至っていません。

ノルウェー人記者のErick Hagenは西シリアの紛争の背景にある天然資源について記事を書いています。彼はモロッコが西シリアの領地を主張する理由の1つは、豊富なリン鉱床であり、 モロッコは毎年約3,000万トンものリン鉱石を輸出する世界最大の輸出国となっている。そして過去数年間、300万トンのリン鉱石は西シリアが原産地である。と論じています。ウィキペディアの英語版ではこの見解に同意しており、この領域には世界で最大のリン鉱石の供給地となっている都市ブーカラーがある。と述べています。

一方で、The Jamestown Foundationでは、2006年4月20日に西サハラからマグレブの治安の重要性について述べています。今日、西サハラの大部分がモロッコによって支配されている南部諸国として知られている一方で、20~25%がSADR(サハラ・アラブ民主共和国)の支配下にあります。3つの主要な問題が西サハラの平和のプロセスへの鍵となっています。相互の認識の問題、西サハラの国の設立、そして対立によって立ち退きを余儀なくされた多くのサハラ難民の問題です。

(パンオリエントニュース)